tituti MAGAZINE

yumiko kinjo

#03 INTERVIEW 金城有美子

強烈な個性に、重厚さと親しみが同居する金城有美子さん。そこに垣間見えるのは、やはり沖縄の光のような陰影の妙。陶芸だけにとどまらず、様々な表現の分野で活躍する金城有美子さんの生い立ちから今までの活動の軌跡。パワフルなお話を全2回に分けてお届けします。

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ご出身は現在もお住まいの津嘉山とお聞きしました。

生まれも育ちも同じ津嘉山です。生まれは 5 歳くらいまで叔父が住んでいたところで、それからは今のところに引っ越してきました。叔父が住んでいた家は現在は立て替えていますが、もともとは小さい家だったんです。細長い平家で庭が見えて、そのコンパクトさが心地よかった。引っ越して家は大きくなったけれど、それはそれでアスレチック的に遊べる感じで良かったかな。

当時の津嘉山での生活や環境は、今と比べてどうでしたしょうか?

うちは古いところの土地なので元々宅地でした。そこからどんどん発展して山だったところも道ができて、スーパーができて、当時遊んでいた山が半分削られて、みたいな感じです。

小さい頃は同級生というより、お兄さんお姉さんが遊んでくれたので上下の付き合いが多かったですね。面倒見てもらって、そうやって自然に下の子も遊ぶみたいな感じだったんです。人の家にもよく行くし、川にも一緒に遊びに行く。今でも周り近所のおじちゃんおばちゃん達は、みんな知ってますね。

小学校くらいまでは集団登校。地元の小学校が途中からできたので単独での登校になりました。結構な距離で 2 キロくらいかな。今考えるとよく歩いたなと思うけど、楽しかったです。途中、人の家行ってお水飲ませてくださいとか、動物が好きで鳥とか豚とかヤギを全部チェックして回ったり、鶏小屋があったら鶏全部チェックしてから帰る。これがしたくて学校早く帰りたい、みたいな感じでした。

庭から

『行くか、こんな学校!』って帰ったんですよ。もうなんか私の夢がバラバラーって感じで。

畜産農家も多かったんですね。

多かったです。それに、豆腐屋もあるしとりあえずなんでもある。村でなんとか回ってる感じですね。復帰は幼稚園の頃だから、それから小学生になって730(ナナサンマル)※1やって白黒からカラーテレビになって。B円(ビーえん)※2は覚えてないけどドルは覚えてるかな。

※1 復帰 6 年後の1978年 7 月30日に、自動車の車線を右側通行から左側通行へと変更するために、周知されたキャンペーン。
※2 米軍統治下に発行された緊急通貨。その後ドルへ、復帰後に円へと切り替わる。

いろいろ不便だったから付き合いが多かった。嫌でも付き合わないといけないんです。ある意味それが窮屈でずっと嫌だなって思ってて、当時は早く出たくて出たくて仕方なかったですね。見られてて嫌だなーって。でも今になると気にかけてくれてる、心配して見てたんだなっていうのがわかります。雨降ったから洗濯入れといたよ、くらいの勢いなんですよ。

高校受験の時に父親が東京に受験しないかという話があって、面白そうな学校でいいなと思いました。試験がデッサンと英語の試験ぐらい。ようやくここから出れる、東京で遊べるぞって感じだったんですよ。

それで、面接の時に母親と二人で東京に行ったんです。そしたら、面接官が「保護者がいない状況で高校生だけ住むっていうのは、学校としては受け入れられない。」って感じだったんですね。知り合いのおばさんの家に住む予定だったんですけど、身内じゃないから「どうですかねー。」みたいない感じ。

面接官が三人ぐらいいたんですけど、思わず「わざわざ沖縄から来たのに、そんなこと書いてました?」って言ったんですよ。そしたら「福島から来てる子も同じ様な状況で遠慮してもらってる。」って。

だから余計に「書いてないから、同じ様な状況の子がもう一人いますよね。わざわざ沖縄から来たんですよ。最初っから書いてもらわないと、なんのために来たのかわからん。落ちるんですね。不合格ですね。」みたいなことを言ったんですよ。そしたら「いやー、不合格ということではなくて。」「じゃ、合格ですか?」「いや、合格でも。」みたいに面接官もタジタジになって。「大学の時にうちの学校に来たら。」と言われたので「行くか、こんな学校!」って。書き残したデッサンもあるんですけど、帰ったんですよ。もう、なんか私の夢がバラバラーって感じで。

高校の時に離島から那覇に出て一人暮らしする方もいますよね。

東京ってところが、やっぱり大人から考えるといろんな人やいろんなことがあるから。寮もないし先生が見れないっていうことだと思うんですよね。結局、特に美術をやるわけでもなく普通高校に行きました。

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高校二年の時に父親が亡くなったんです。その時に自分はどうやって舵を切ればいいのかわからなくなって。大学行きたいわけでもないし、どうしようって思ったまま高三の 1 月になる。

その時たまたま、ニュースで県立芸大ができるってことを知りました。それで美術の先生のところに行って。「今更?」みたいな雰囲気になったんですけど、結局「どこ受けたい?」ということで。平面が苦手だったから立体、立体なら彫刻か陶芸で、陶芸にします程度の進路の決め方でした。

それまでは陶芸には興味はなかった?

興味というか話すと長くなりますが、父親が建築家で沖縄民芸協会の会長だったんですよ。当時、海洋博があって。沖縄館の仕事は問題なかったんですけれど、あと一個ホテルを作ったんです。そしたら、そこがお金もらえる前に倒産しちゃって。それで億という借金をかかえちゃったんです。だけど、その時すごい応援してくれる人がいたり高度成長期で仕事がたくさん来たので、なんとか返すことが出来たと思うんですけど。

その時期に父親が一度、会社にも行かずに『ろくろ』を買いに行ったんです。大きいしっかりとした『蹴ろくろ』。壺屋で買いに行って家で練習して。その時に濱田庄司先生とかにあったんだと思うんです。

当時、復帰と同時にいろんなものが新しくなる。いろんなものがコンクリートになる、水路だったのが水道になってどんどん新しくなる。古いものは壊される、汚いって捨てられてたんです。民芸とか手仕事のものは綺麗じゃない、ってなってたんですよ。それがそうじゃない、これはとてもいいものなんだよって伝えたくて、父は建築の中に民芸を落とし込みたいって。民芸に対しては、作る側じゃないけどプロデュースみたいな立ち位置になったと思うんですね。

で、会談とかの時に自分たち子供も一緒に行って作ったのを見たり、一緒に旅行に行って各地の民芸の形を見たりとか、そんな感じで覚えています。

よかったのが、あちこち作家さんのところにも連れていってもらえたんです。こういうのが民芸なんだっていうふうに叩き込まれた。普通に売っているプラスチックとか、そういうのは絶対うちに入れない、本当に徹底した感じだったんですよ。

それで、なにかを専攻しようと思ったらこういう世界に行こうっていうのが自然の流れだったのかもしれないですね。

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